SWEET SWEET DAYS

二階堂高嗣くんとKis-My-Ft2中心に好き勝手

R30がジャニ沼に浸かるまで・前編

この自分語りに需要があるとは思えないのですが、Twitterと連動させていることもあり、名刺がてら書いてみようと思います。

 

思い起こせば多くの30代がそうであるように、私の初ジャニーズ体験も昭和を代表する伝説のアイドルグループ・光GENJIにまで遡ります。

とはいえ、当時の自分はアイドルよりも『りぼん』を始めとする少女漫画に熱中していたので、歌番組をちらりと流し見る程度だったような。

そのためそれほど知識がなく、クラスどころか学校中を席巻するかーくん担に「○○ちゃんは光GENJIの中では誰が好きなの!?」と詰め寄られ、苦し紛れで「ううう、内海くんかな?」とリーダーの名前を上げたある放課後の苦い記憶が今でも思い返されます。

 

と、ここまで書いて、当時大沢さんと内海さんが出演していたドラマ「ワイルドで行こう! BORN TO BE WILD」を結構熱心に観ていたことを思い出しました。ななななつかしい……!

美女に触れると狼男に変身しちゃう大沢さんにはなんだか艶めかしい色気があり、年中ほっぺを赤くしている田舎の子どもには刺激がとっても強かった。

なので、あのとき咄嗟に“優しいお兄さん”的イメージを持っていた内海さんを選んだのだと思います。

 

あとは親戚の家に遊びに行った際、お姉さんの部屋に貼られていた男闘呼組のポスターを指差して「このひとたちカッコいいね」と呟いたところ大層喜ばれ、「これすっごい大事なんだけど○○ちゃんにあげるね」と丸めたそれを帰りに手渡された、なんてこともありました。

もらったそのポスター、しばらく勉強机の前に貼ってたなぁ。

確かお姉さんは成田担だった記憶がありますが、その後彼女は思春期をこじらせて本格的なお籠もりさんになってしまったため、今では確かめようがありません。

自分も当時は、20年以上あとにメンバーのご子息が所属するグループにハマるなど、つゆほども思わなかったのでした……。

 

その後は中学校に進学する前後に“ウルトラ・ソウル前”のB'zにハマり、それと同時にユニコーン電気グルーヴにも心奪われてしまったため、「3大王子は稲葉浩志奥田民生石野卓球」という混沌時代に突入。

高校ではミッシェルガンエレファントのメジャーデビューをきっかけに邦楽ロックに傾倒。Corneliusを始めとする渋谷系ムーブメントの波にも飲み込まれてしまったのでした。

 

そんな中でも、私の傍らにはいつも“ジャニヲタ”がいました。

中学時代、一緒に塾通いをしていた幼なじみのSちゃんはJr.時代からの熱烈なTOKIO・長瀬担で、デビュー決定直後に行われたコンサートツアー「MOVE ON」で彼らが地元の小さなライブハウスを訪れた次の日には、パンフレット持参で「智也のこのピチ(ピチ短)パン姿がいかにセクシーか」について熱弁をふるっていました。

 

また、通っていた北陸の公立高校では大きく分けて①沖縄アクターズスクール派(SPEED、MAXなど)、②小室ファミリー派(安室奈美恵華原朋美TRF、globeなど)、③ジャニーズ派(TOKIO・V6・KinKi Kidsなど)の3大派閥が猛威を振るっていました。

そのどこにも属せない自分は急速に厨二的なアレをこじらせていくわけですが、そんな中でも相容れたのは断然ジャニーズ派だったように思います。

 

ドラマ全盛期とも呼ばれた90年代は、学園ドラマといえばジャニーズ主演が当たり前でしたし、SMAP兄さんのあとに続けと若手ジャニーズたちのバラエティ進出が顕著になった時期でもあります。

そのため、ジャニーズにそれほど興味がない自分も「それ行けKinKi」シリーズや「ザ!鉄腕!DASH!!」、今秋復活する「学校へ行こう!」などを毎週録画して(もちろんVHSに3倍で)、楽しみに観ておりました。

特に「学校へ行こう!」はマストで、学校でも放送翌日はいつも話題沸騰だった記憶があります。

もちろん世代的なこともあるかとは思いますが、当時は現代ほど娯楽に多様性がなかったことから、一般人とジャニヲタ間の共通言語も今より多かったのではないでしょうか。

 

それに加えてジャニヲタである彼女たちは、「ある対象に執心する」ということに関して、とにかく許容性が高かった。これは今も昔も変わらないように思います。

そのため5、6人のグループ内でも「ラジオの懸賞でフラカンのサイン入りTシャツが当選したんだけど、かなり締切過ぎてから応募したはずなんだよね……」というバンド系ヨタ話と、「やっぱり彼氏と別れるわ。どうしても(V6の)剛と比べちゃって苦しいし」という至極真剣なジャニヲタ恋愛相談がごく自然に共存していました。

ここ3年を除けば、ジャニヲタと最も濃密な時間を過ごしていたのはこの時期だったのかもしれません。

 

その後は大学進学とともに上京したのですが、毎日のようにライブに行ったりミニシアターをハシゴしたりと放蕩の限りを尽くし、お茶の間でもジャニーズに触れることはほとんどなくなったように記憶しています。

当時の音楽シーンはメロコア・ハードコアブームだったんですよね(どんぴしゃAIR JAM世代です)。あとはブランキージェットシティまわりを熱心に追ったり、UKロックやテクノにも本格的に目覚めたりで結構忙しい毎日でした(ちなみにこのブログタイトルもある曲名にちなんだものだったりして)。

こんな風に書くとリア充な生活を送っていたと勘違いする方もいらっしゃるのですが、私の行っていたライブやイベントって、DJセットの前を陣取って一心不乱にメモを取ってる女子(どこかで見たことのある風景)や、ボロボロのゴーストバスターズのTシャツに、ジョギングするおじさんしか履いてないだろってくらいイモくさいスポーツメーカーのスニーカーで踊り狂う男子とか、“音楽ヲタク”もたくさん見受けられました(もちろん、私もどちらかというとこちら派でした)。

音楽のもと、リア充とヲタクが渾然一体となる様は、行くところに行けば現在でもそれほど珍しくありません。

 

話を戻します。

その後苦々しい就職活動を経てなんとか就職したわけですが、趣味嗜好はそれほど変わることはありませんでした。そう、2006年にあのグループがデビューするまでは。

この一文だけで多くの方はもうお気づきでしょう。

あのグループ=KAT-TUNです。

彼らの存在を初めて知ったのは、おそらくデビュー前の歌番組だったと思います。

今回こちらを書くにあたって少し調べてみたところ、彼らはデビュー前から何度もMステに出演していたのですね。記憶が定かでないのですが、そのうちの数回を見ていた可能性が高いです。

 

最近ではその人間離れした神々しさに“2.5次元”と評されることも多い彼らですが、当時の私にとっては史上最高に人間味を感じるジャニーズでした。

「キラキラと輝きを放つ衣装をまとい、甘い言葉をささやく美男子たち。でもそれは大人たちの手によって作られた偶像で、舞台裏では世をあざ笑っているのではないか」。

改めて文章にするとひどい誤解で恐縮なのですが、当時の私はこれくらいジャニーズというものをフィクショナルな存在として捉えていました(多分、自分も尖っていたのでしょう……)。

 

そんなひどい偏見を持っていた自分の目にも、ジャニーズらしからぬ強烈なギラギラ感を醸し出すKAT-TUNはとにかく魅力的に映りました。

時代に風穴をあけてくれそうな風雲児たちのその大胆な言動は、かえって正直さや強い意志のあらわれであるように感じられ、「ジャニーズも血の通った人間である」という当たり前の事実を実感させてくれました。

また楽曲も、ロックをベースにしつつジャジーな味つけが絶妙だったり、ボイパでヒップホップを薫らせたりと聴きごたえ抜群で、幅広い層の興味を惹くものであったと思います。

知れば知るほど、「おもしろいの出てきた!!!」と興奮は増す一方でした。

 

そんなこんなで同グループにじわじわと興味を深め、それから1年後には結婚したばかりの夫がコンDVDをクリスマスにプレゼントしてくれるという微笑ましいエピソードまで生まれたわけですが、当時の私は修行中の会社員で帰宅は毎日午前様。休日も月1~2日で、平均残業時間が200時間以上というとんでもない生活を送っていたため、疲れると会社でこっそりYou Tubeを開いたり、就寝前に録画した歌番組やドラマ、「カートゥンKAT-TUN」などのバラエティをつまみ見る程度に留まっていました。

当時の一番のお気に入りは田中さんでしたが、2007年頃からは美しすぎる甘栗期の上田さんにも目を奪われ、「作画が!完璧すぎる!!」ともだえる毎日でした。

 

その後、過労とストレスから上からも下からも出血が止まらなくなり、あえなく退職。2年間に渡るニート生活に入るわけですが、そのスタート直後に前職の上司の奥さまからお誘いいただき、ついに「Break the Records」の東京ドーム公演でジャニコンデビューを果たします。

座席は天井席の最後尾だったのですが(今思うとある意味貴重な体験)、それを感じさせない圧倒的なパフォーマンスや火事と見まごう如くの特効、会場にあふれる熱気に圧倒されっぱなしの3時間。奥さまに何度もお礼を言い、大満足で帰路につきました。

 

しかしながら、ジャニ沼にハマるのはまだ先のお話でして……。

後半に続きます。